稲むらの火
南側(浜口山)から見た広川町の海岸
昭和南海地震の約十年後(昭和30年頃撮影)
正面に長く続く松並木(防潮林)の背後に広村堤防があり、その後ろの街並みを昭和南海地震津波から護った。 しかし、堤防に阻まれた津波はその外側、特に江上川沿いに浸入、グラウンド右に見える中学校校舎や、右端に見える紡績工場とその社宅を襲った。広村の死者22人の多くがこの付近で亡くなった。
現況 (平成14年撮影)
広湾の埋め立てがすすみ、造成地に役場庁舎や分譲住宅が建っている。手前左に江上川河口の水門と住宅地が見える。
発行:平成15年3月 制作監修: 津村建四朗 (和歌山県広川町出身、元気象庁地震火山部長)
* 平成15年3月に和歌山県で開催しました「西太平洋地震・津波防災シンポジウム」の際に、
我国の地震防災の先駆者である和歌山県広村出身の浜口梧陵とその献身的な活動などを紹介することで、
地震・津波防災を考える一助になればとの願いから、このパンフレットが作成されました。
本ページはそれを掲載したものです。
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