稲むらの火
広村を襲う安政南海地震津波(1854年)の実況図
(古田庄右衛門著「安政聞録」より:養源寺蔵)
高さ約5メートルの大津波が15世紀初頭に築かれた波除石垣を乗り越えて村を襲い、背後の田んぼに浸入している。
特に村の南北を流れる江上川(右側)と広川(左側)に沿って激しく流入している様子が描かれている。
浜口梧陵(右写真)は、田んぼの稲むら(地元では「すすき」と俗称)に火を放って、暗闇の中で逃げ遅れていた村人を高台にある広八幡神社(右上の鳥居の奥)の境内に導いた。
安政津波実況図
浜口梧陵
広湾上空から見た広川町広地区の海岸の現況
安政地震津波の実況図とほぼ同じ方向から見たほぼ同じ範囲が写っている。
海岸に沿って細長く続いている松並木(防潮林)の背後に、安政地震津波の後、梧陵が私財を投じて築いた広村堤防(防潮堤)がある。 広湾の埋め立てが進み、造成地の中央に町役場の新庁舎が見える。 この写真が撮影された後に、その左右に体育館や分譲住宅が建てられた。 津波や高潮に備えて、埋め立て地は、高さ7メートルのコンクリート護岸で囲まれており、右側の江上川河口には水門が設置されている。 右側の白い大きい建物が紡績工場、その手前が耐久中学校の校舎とグラウンド。 右手奥の小さな緑の部分が避難先の八幡神社。